今回思ったことをつらつらと書いてみます。



仙台に着いた時、駅を歩く多くの人を見た時に、
ここにいる誰もが悲しみや恐怖を体験しているのだなーと。
やはり東京にいる時とは違う気持ちになった。
実家の家族や親戚もそうだけれど、それぞれにあの日
生き残るためのドラマがあったのだから。




当然と言ってしまえば、当然なのだけれど。
あれから2ヶ月経った今でも、実家での家族同士の会話の9割は地震津波関連のこと。
私が帰った日、弟と父が地震当日何をしていたのかを話していた。
「2ヶ月経った今、そんな話!」と驚いたけれど
仕事、子供たち、食べ物、地域のことなどなどなど。
とりあえず片付けなければいけないものがあまりにも多過ぎて、当日のことを振り返る余裕なんてなかったのかもしれない。




車で実家の周辺を見に行ってみる。
荒浜〜玉浦〜仙台空港長瀞〜吉田浜〜野地。6号線を山元〜坂元〜新地まで。
よく知っている場所を見ても、どこかわからなくなってしまう所多数。
途中でたまらなく気分が悪くなってしまう…。涙は出なかった。
やっぱり「枠」で切り取られた写真や画像を見るのとは違う印象。
被災地を見た方達が、よく「言葉がみつからない」というのを聞いていたけれど
まさに、そんな感じ。どう表現したら良いのかわからなかった。



私の母校長瀞小学校。津波で校舎が使えなくなってしまい
吉田中学校を間借りして授業を再開しているよう。
放課後、数人の生徒達が列を作り、
辺り一面田んぼだらけの寂しい道を、遠くの避難所まで歩いている姿は切なかった…。




常磐自動車道常磐線が波をせき止めてくれたお陰で
実家は床下浸水程度で済んだ。
これは本当に幸運だっとしか言いようが無い。
そのどちらもない地域はほぼ壊滅。
常磐自動車道常磐線、どちらか一方でしか波が止まらなかった地域は床上浸水だったよう。